五月女幸雄  Yukio Saotome
TOP目次  P作成:2014/03/29 (土) 9:49:19/修正:2014/07/26 (土) 12:33:35

もうひとつの価値を求めて―五月女幸雄の半生と作品 松永康[アートコーディネーター]

社会の実相というのは、その表面からはなかなか見えにくいものだ。しかし、視点を少しずらすことでその本質が姿を現す。五月女がこのことを意識するようになるのは、栃木県立石橋高等学校の在学中であった。

五月女幸雄は1937年、栃木県宇都宮市に生まれた。高校時代は美術部に所属していたが、美術に限らずさまざまな文化活動に興味を持ち、演劇部では公演のための舞台づくりなどにも参加していた。

そのころ演劇部の顧問をしていたのが、後に栃木県立美術館および世田谷美術館の館長となる大島清次であった。世界史を受け持っていた大島は、ことあるごとに同代の社会状況や現代思想について学生たちに熱く語って聞かせた。教育に対するこうした情熱と一貫した姿勢に引かれ、五月女にも一般的な見方とは別の角度から社会を見つめる目が養われていった。

五月女は、美術大学の彫刻科への進学を目指していた。粘土の触感を味わいながら行う彫刻の制作が身体に最もしっくりきたのだ。高校卒行後、やはり宇都宮出身の先輩であった黒田譲の紹介で埼玉県蕨市の「蕨画塾」に通うようになる。東京芸術大学の石井鶴三教室に在籍していた黒田は、何かにつけてよき助言を与えてくれた。米川が語る彫刻家、石井の人となり、またその著書によって、芸術に対する憧れは助長されていった。やがて黒田の紹介で実際に会うことになるが、石井は繰り返し、モチーフの核心となる「心棒」をいかに捉えるかについて説いた。

その言葉から五月女は、作品の構築上の問題だけではなく、ものごとの本質を見据えることの重要さを学んだ。

3度の受験にも関わらず東京芸術大学への入学は叶わず、五月女は最後に合格通知を受け取った埼玉大学教育学部の美術科に入学することとなった。大学では彫刻よりもむしろ絵画制作にカを注ぎ込むようになる。ところが、キャンバスに絵具を塗るだけの作業ではやはり飽きたらず、ベニヤ板やペンキ、石膏、布、紙、木屑といった素材を駆使して実験的な制作を行うようになった。表現手段が絵画に変わっても、素材に対する触覚的なこだわりが捨てきれなかったのだ。

五月女は、大学在学中から積極的に作品の発表活動を行っていたち新制作協会展に連続入選し、制作を続けていく上での大きな自信を得た。他の美術大学生たちとも幅広い交友関係を持ち、グループ展にも数多く参加している。「20代作家集団」第1回展〔註1〕には、後にハイレッドセンターなどで先鋭的な活動を展開することになる高松次郎なども参加しており、彼らとの交流を通して五月女は前衛的な美術運動のまっただ中へと踏み込んでいくことになる。

1960年代は前衛の時代と言われる。60年安保への反対運動を期に、世の中は社会運動の大きな波の中へと飲み込まれていった。

美術の世界では、美術を美術館や画廊といった閉じた空間の中だけで展開させるのではなく、公共の場に晒して大衆に直接働きかけることを目指するようになっていた。

大きな力に対する対抗意識は、多くの若い美術家が共有していたものであった。こうした運動は、やがて中央のみならず全国各地へと飛び火していった。

これらの普及活動は主に「埼玉県美術展」によって担われており、そこに所属する美術家たちが美術教育に関しても大きな影響を及ぼすようになっていた。美術教師でもあった五月女は、ここで展開していた方向美術を制度化させ閉塞させていくものと捉え、なんとか解放させたいと考えるようになっていた。作品制作にとどまることなく、個人と社会のぶつかり合いを繰り返しながら真の芸術表現は生み出される。政治的な要素を含んだこうした活動はいつしか絵画という枠をはみ出し、イベント的な性格を持ち始めるようになる。

人との関わりや空間への志向は、五月女を本格的な舞台美術の活動にも手を染めさせた。そのきっかけとなったのが、当時、創作舞踊界で新たな表現を打ち出し注目されていた藤井公との偶然の出会いであった。たまたま「埼玉前衛芸術青年作家協会」の展示を見に来ていた藤井が、何を思ったかトイレットペーペーのたくさん吊り下がった部屋で突然踊り出したのである。それからというもの2人は意気投合し、五月女は藤井の主宰する「束京創作舞踊団」の舞台美術を担当するようになっていった。

五月女が初めて手掛けた舞台は、当時、束京創作舞踊団の新鋭として注目を集めていた小黒美樹子の「霧のなか」で、これは1967年の第19回全国日本舞踊新人公演において初演された。照明との駆け引きを巧みに利用した舞台は、小黒の舞踊に対する好評とともに舞台美術の新人登場として舞踊雑誌にも紹介された[註3]。その後、舞台美術家としての活動は、舞踊にとどまらずさまざまな方向で展開することとなる。

美術表現とこうした舞台表現との結合から生まれたのが、六本木の「自由劇場」や東京都美術館での「現代日本美術展」に発表して話題となった「人間商品」[参考図版、43頁]のシリーズと言えるだろう。

この作品は、ガラスのショーケースに生きている人間をそのまま入れて展示するというものであった。見る者は初めそれがマネキンか何かの作られたものだと思う。ところがしばらく見ていると、その人体が突然動き出して驚かされるといったぐあいである。この作品は大きな話題を呼び、その後、都内の何か所かで公開され、またニューヨークでも展示された。

こうした実験的な活動とは別に、五月女には個人的に続けていた作品制作があった。心が疲れたとき九十九里の浜辺に出かけては、一切の作為を捨てて光と戯れる波の姿を即興的にキャンバスに写し取っていたのである。海に向かってひたすら措いていると、母の胎内に包み込まれていくような心地よささえ感じられた。自らを癒すための営みを繰り返すうち、写実的な表現技術は次第に五月女の血肉となっていった。

イベント的な表現を通過した造形は、ついに現実の人間を素材とするまでになっていたが、この方向をさらに推し進めるなら次は日常生活自体を素材とするしかなくなる。五月女はこうした展開に限界を感じていた。それまで行ってきた前衛的な活動によって得た成果を、絵画の中で再度展開させることができるのではないか。こう考えたとたん、五月女の体内に充満していたものが、絵画という枠を通して一気に噴出したのである。この後しばらくのあいだ、海の情景を用いながらさまざまなバリエーションによる絵画作品を措き続けることとなる。

1973年の「国際青年美術家展」に、五月女は海をモチーフとした極めて写実的な絵画作品を2点出品した。1点は海の上に新聞紙が浮いている作品で、もう1点はやはり海の上に一筋の雲がたなびき、その中空に男女の情事の場面が描かれたものであった。さらに翌年の2月、栃木県立美術館で行われた「北関東美術展」には、やはり海の情景をもとにした《ホリゾントライト》[出品者号140頁上]を出品し、こちらは準大賞を獲得した。このとき五月女の特異な才能に目を止めたのが美術評論家の高階秀爾であった。それまでも、高階のさまざまな著書を通してイタリアリレネサンスやラファエロ前派などへの興味を開かされていた五月女であったが、実際の会話の中で豊かな語彙によって語られる提言はまた新たな方向を指し示すものとなった。

この《ホリゾントライト》は逆光に映える海の風景を措いたものであったが、それはタイトルが示すとおり照明の当たった舞台のホリゾント(背旗幕)でもある。そしてその手前では、無数の情報の詰め込まれた新聞紙が、あたかもそこで踊らされているかのように中空を舞っている。私たちが日々振り回されている雑事も、いずれ大自然の大きな流れの中に飲み込まれていくのだろう。人間界の諸々のできごとなど、大海原の前では一瞬のはかない夢でしかない。

1983年、五月女は文部省の在外研修員として、家族とともにアラブ首長国連邦のアブダビヘと旅だった。物語を通してしか知らなかったイスラムの世界は、すべてが目新しいものばかりだった。文化を異にする人々と出会い、言葉や価値観の差を超えて通じ合うことの喜びも味わった。貧しさの中で活き活きと暮らす彼らの姿に、世の中にはまったく違う生き方があることを実感した。こうした軽験の中で、国境や文化の違いを越え、すべての人々の心に伝わるものを表現したいという思いはますます高まっていった。

ところでアブダビには、数多くのフランス人が仕事で赴任していた。彼らは習慣的に芸術家に対する関心が高く、五月女自身もフランスでの発表経験があったため、交友範囲は自然とフランス人社会に広がっていった。そこで築き上げられた人間関係からフランス移住のための基盤は徐々に整えられ、1986年、五月女はついにパリに自らのアトリエを構えることとなる。

「人間商品」を発表した頃から五月女は、経済活動の行き過ぎた拡大が人間性の疎外を生み出すこと作品を通して主張していた。それは次のような記述からもうかがえる。「今世紀末、急速に発展した産業技術は、人間生活を目まぐるしい早さで変えてきた。人々は、快適な生活と引き換えに、精神性の豊かさを失い、環境破壊の危樺に瀕している。一見絶望的な状況の中にあっても、もし、我々が人間の原点の再発見に努めるならば、未来を照らす光は射し込むに違いない。[4]」五月女は、このことを画家としてどのように訴えていくべきか深く思慮するようになっていた。

1994年に描かれた《こぼれる光》という作品がある[参考図版]。中央には、手に掬った水をこぼして遊ぶ少女の姿が描かれている。暖かい日の光とひんやりとした水の感触が見る側にも伝わってくるようだ。周囲は不気味な闇に覆われているが、少女のいる場所にだけまぶしい光が注がれる。影を落としているはずの樹木は、なぜか掻き消されたように存在感が薄い。そしてはるか遠方には、中世から続く堅牢な城壁の街が佇んでいる。この作品に対する解釈のしかたはさまざまあろう。しかし筆者には、多くの自然が失われてしまった現代にあって、真に残されるべきものがそこに示されているように思えてならない。私たちを生み育んだ自然と、そこから享受してきた身体の愉楽は、何としても次の世代に引き継いでゆかなければならないものだ。祖先が築いてきた文化とて同じことだろう。そしてそれらは、いつも身近にありながら私たちがふと忘れているものばかりである。今、少しだけ視点をずらしてそのことを見定め、何が本当に必要なのかを知ることがたいせつなのではないか。

この作品は、そのことを静かに語りかけているようだ。

[註11960126日~31日、三越百貨店(池袋)/[註219619月グループ独自の展覧会としては

1964年の第回展まで続けられその後他の前衛グループとの合同展に参加するが、前衛運動の沈静化とともに自然消滅的に解散となる。

[註3]「現代舞踊」No1491967101日)、「舞踏みたまま」(陽)

[註4]「挑むかたち-サントリー美術館大賞展’92」図録、サントリー美術館、1993

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